西田美乃 (English)

私は、クリスチャンホームに生まれ、小さいときから教会に通っていました。毎週日曜日には教会に通うことが当たり前で、疑問に思うこともありませんでした。小学校や中学校に入り、部活に入ってからも毎週教会に行くことができました。そんな生活の中で、私には1つ考えていることがありました。それは、私は本当に神様を信じているのだろうか、ということでした。特に今まで深く悩み苦しんだこともなく、神様に助けていただいた!という経験があまりないと感じていました。熱心に讃美している人を見て、なぜ私はあんなに熱心に歌うことができないのだろうかと思っていました。自分は心から神様に感謝していないような気がして、クリスチャンホームでない人の方が、救われたという実感があるなんてうらやましい、と思っていました。そのことを周りの人に相談して、「人にはそれぞれ神様のタイミングがあり、神様の恵みを感じられるタイミングがきっとある。それまでお祈りして待っていよう。」 と言ってもらっても、あまり実感がなく、そのときはいつ来るのだろうか、そもそもそんな時が自分にくるのだろうか、と思っていました。

 高校に入ってから私は、自転車で通学するようになりました。自転車に乗っているときは音楽を聴くこともできず、暇だな、と感じていました。そんな時、私が始めたのは歌を歌うことでした。いつも聴いているような歌は難しく、歌詞もあまりわからなかったのでいつも思いつくのは讃美でした。私は何気なく讃美をし始めましたが自然が多い中で歌っていると、神様の存在を感じられるようになり始めました。特に朝早くの空がとても好きで、こんなきれいなものを、計画を持って造られた方がいるに違いない、と思うようになりました。一つ一つを大切に作られた神様は、私のことを今みておられるのかもしれない、と。それからだんだんと、疲れているときには神様を求め、神様にお祈りしたら気持ちが楽になるな、と感じられるようになりました。そんな時、与えられたみことばは、ローマ人への手紙1章20節「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造されたときからこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」という箇所です。私はそれまで、見えないものをどうやって信じることが出来るのだろうか、と心の底で思っていました。けれども、自然の美しさを通して、神様は私が信じるか信じないかに関係なく存在していることを知りました。

 神様は私を愛し、私のためにイエス様は十字架にかかってくださったという事実を、自分自身で信じる決断をする必要があり、それから徐々に救われたという実感を得られるということがわかりました。そして神様は少しずつ私に変化を与えてくださって、今もずっと少しずつ成長させてくださっています。

 最後に、私が名前の由来としてお父さん、お母さんに与えてもらった聖書箇所を書きます。私が小さい頃からあまり悩みや苦しみもなく歩んでこられたのは、この箇所に支え励ましてもらっていたからだと思います。これからもずっとともに歩んでいく大好きな箇所です。伝道者の書3章11節「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」